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地魚の寿司を食べるなら

土門拳記念館



土門拳記念館に到る通路

土門拳記念館は酒田市内より南へ、最上川、出羽大橋を渡った所に建っています。
記念館が建っている辺りは、元の酒田の発祥の場所です。
今、酒田の市街地になっている所は、昔、その当時は、向こう酒田と言われていました。
商いを行うため、地の利の良い今の、酒田、向こう酒田に移ってきました。
誰がと言うと、、
岩手県平泉の藤原氏が滅亡の時に、徳の前と言う女性、妹とも妾とも言われている?
・・・・を守ってきた、三十六人の侍が移り住んだと言われています。
三十六人の侍が、元の酒田、宮之浦を開いたわけでは無く、落延びてきたのですよ。
元々は、宮之浦という場所なのです。おおよそ1200年以上の歴史があります。
最上川の河口が、砂の堆積により、河口の移動と共に、現在の位置、
出羽大橋の下の方に住んでいます。
和歌の季語で袖ヶ浦と言われる所は、ここ最上川の河口と、もう一箇所だそうです。
その名乗りとして、最上川の南側を袖浦と呼ばれていました。
現在は、酒田市ですが、そでうら農協などと、まだ使われています。



飯森山

場所の呼び名は、宮之浦、飯盛山と呼ばれていました。
飯盛山という呼び名は、ご飯茶碗を伏せたような形だからとか、
これは、どこでもあります。
これとは別に、弘法大師、空海が中国で修行のおり、お師匠さんの恵果阿闍利から、
真言密教を授けられ、日本に帰る時、 
日本の海岸線を北に行くと、大きな川(最上川)があり、その上流に、
生きた大日如来がおられる。
それを拝み祈るように、と言われた。

そこで、日本海側、海岸線を東北の方に旅してくると、
越後(新潟県)と出羽(山形県)に大きな二つの川があり、
その、どちらかに大日如来がおられるに違いないと言うことで、
ここ、最上川の河口の、飯盛山の頂上に護摩壇を築き、

七日七夜、祈祷をしたら、満願の日の夜、上流から、ご来光が見え
アビラウンケン  と言う、七文字の大日如来の梵字が、
月明かりに照らされながら、キラキラと流れてきた、
そこで、弘法大使は、その、川を上流にさかのぼっていき、
湯殿山の御神体を発見された。

その、梵字が流れてきた川を、梵字川と名つけた。
湯殿山の御神体から流れ出るお湯が、赤いので、赤川
お祈りした山を、祈り山、、、、、飯盛山と言う、具合になずけた。
と言うような話、どうですか。
ちなみに、その当時、赤川は飯盛山の東側、海から見て、飯盛山の裏側を
流れていました。

芭蕉が奥の細道で最上川の上流の本合海から羽黒山、湯殿山を回り鶴岡より、
酒田に来る時は、赤川を下って来たわけです。
現在は、奥の細道で赤川を下る途中で、浜中の船着場と言う地名が出てきます。
現在は、昭和になり河川改修で、その船着場の手前で、赤川新川と言う名前なり、日本海に流れています。
ちなみに、そこの場所は、深く落ち込んでいて当時の川の面影が残っています。
奥の細道に興味のある方は、どうぞ、また、近年まで、船宿も残っていましたが、
解体しました。残念。。。。
船着場と言う地名は残っています。
ちなみに、浜中という部落には、芭蕉が越後(新潟)に行く時歩いた道がまだ、一部、残っています。
その内無くなるでしょう。



飯森山、山頂より最上川、酒田港



飯盛山、山頂より鳥海山

飯盛山の頂上には公園を歩いて、登れます。
運が良ければ、鳥海山が眺めれます。
近年まで、頂上には、観音堂跡の石柱や三角点の柱などが立っていましたが、
今回、登って見ましたらセメントの展望台に変わっていました。
なんとなく、味気なく、風情か無くて寂しかったです。
三角点は陥没して役に立たなかったからしょうがないな。

観音堂に興味が在りましたら、宮之浦の方に移築してあります。
1200年以上の歴史がありますからどうぞ。
土門拳の前の道路を右の方に海に向かって真っ直ぐ行くと建っています。



池より、冬の景色、白鳥と鴨



土門拳記念館  後ろが飯盛山

冬の景色ですから、鴨がいっぱい、います。
今からは、池に鯉がいますから、煎餅やパンなどの餌お持っていくと良いです。
子供連れの時は特に、大人でも面白くて飽きないです。




土門拳は酒田では世界の土門拳と言われている。
土門拳は酒田で生まれて、子供の頃に横浜に移転したそうです。
土門拳は最初、画家を志していたらしい、
自分の才能に、絶望を感じ見切りをつけたらしい。
画家になることをあきらめた土門拳が、一筋の光が写真家の道だったと、

そこで土門拳の母親が、
酒田の縁を頼って、東京の上野池之端にあった、
宮内写真館の宮内幸太郎に弟子入りをお願いしに来たそうです
宮内幸太郎は20歳過ぎ弟子は取らないと、
言ったそうですが、

酒田での知人で最上谷さんの口ぞえで弟子入りすることが出来たそうです。
写真館では、土門拳は穴熊と呼ばれていたそうです。

その後、名取洋之助の日本工房に入り、
やめて、朝日新聞に入り、報道写真家として活躍した、

また、日本文化に目を向けて、古寺巡礼や、室生寺、文楽などの写真を撮った。
リアリズムな写真にも、
画家の海老原龍三郎を怒らせて取った、風貌などもある。

土門拳は昭和49年に酒田市の名誉市民第一号なった。

土門拳記念館には、
土門拳の全作品、七万点を所蔵されている。
写真専門の美術館です。

全作品を展示するのには何時までかかるのかな?



記念館の全景 冬



アジサイの咲いてる頃

土門拳記念館の建物は谷口吉生が設計したものです。
行って見ますと建物がセメントにもかかわらず。
周りの自然な風景と違和感が有りません。
四季折々の風景画、楽しめます。
アジサイの頃は特に、色々な種類のアジサイが咲いて綺麗です。
今でも、種類が増えているみたい。



建物から池の方 冬

白鳥は一年中います。
飛べなくなり保護された白鳥です。
池には、鯉がたくさん泳いでいますよ。
煎餅かパンなどの餌を持っていくと、楽しめます。
お子さん連れの方は、
絶対おすすめ、結構はまります。
ちなみに冬は居ません。



中庭



中庭より池を見る。
彫刻はイサム、ノグチさんの 土門さん


建物の中より見ると綺麗に見えるように設計してあるようですが。
外に出て観て見ると、空気が感じられて、清々しい。



勅使河原宏さんの庭 流れ

勅使河原宏さんは、生け花の草月流の家元です。
冬に撮影したため、冬枯れの感じです。



外の下から見ると



上から見ると

ポイントから外れると何の変哲の無い、石、草ですが、
青葉が出て、空気が若くなると、

この庭は、建物の中から見るのが、一番良く見える。
絶対中から見ること、
生け花を見ているよう。

銘石は、草野新平筆 拳湖

銘板は 亀倉雄策

この建物、庭などは、土門拳さんの交友関係の人々が作ったものですから、
自然とマッチして、風景の一部になっています。


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南州神社

飯盛山の裏側には、南州神社があります。
日本に四箇所しかない内の一箇所です。
ちなみに、南州神社と言うのは、西郷隆盛を祭った神社です。



南州神社 正面

なんで北国の、酒田に西郷さんの神社が在るかと言うと。

明治維新の時の、戊辰戦争で官軍と戦ったのは、
庄内藩と白虎隊で有名な会津藩と新撰組の土方歳三で有名な北海道の函館の五稜郭などが、
激戦で有名ですが、
庄内藩が会津や五稜郭と違うのは、
庄内藩は秋田県や山形県内陸地方にまで攻めて行きました。
その隊の中で、酒井玄蕃の率いる二番隊が強かったそうです。
鬼玄蕃と呼ばれていたそうです。
そして、お決まりの温和で美少年でしたとさ。

仙台や長岡、米沢などの、その他の奥羽諸藩で結成した奥羽越列藩同盟と言うのが在りました。

また会津藩と庄内藩には会庄同盟が結ばれていました。

新政府軍は奥羽に総攻撃を開始、最初、白河城と長岡城から戦いの火ぶたが切られました。
新政府軍の圧倒的な軍事力には、
会津の東方の列藩同盟藩は相次いで陥落、長岡城も落ち、政府軍は会津藩をも落としてしまい。
その後、庄内藩も降伏しました。
なんで庄内藩が強かったのかと、私なりに思いますと、
本間家の財力があったからでしょう。
敗戦の後の、罰金も本間家が支払っています。
それで、さしもの本間家も傾きかけたそうです。

その時の、新政府軍の司令官が西郷隆盛だった訳です。
現場指揮者は黒田清隆でした。
西郷隆盛は、鶴岡の鶴ヶ岡城に入場するために鶴岡に来る時に、
新政府軍の兵士の刀を取り上げてしまいましたが、
庄内藩士には帯刀を許しました。

庄内藩に対する処分は非常に寛大なものでした。
西郷隆盛は戦いに強い武士は、
負けたと降伏すれば、どのような処分に対しても遺恨は残さないと言ったと言います。
たとえば、藩主は城を明け渡したら藩内どこにいても宜しい、
藩主の警護は藩士が当たることなど

その時に、新政府軍の会津藩に対する処罰を聞いていた庄内藩士は
非常に厳しい処罰が課せられるものだと考えていました。

それゆえに、庄内藩士は、西郷隆盛は非常に度量の大きい、すばらしく偉大な人だと言うことになったっ訳です。
敗者の方からすれば、勝者に対して遺恨が残る訳ですが、
逆に敵の大将である西郷隆盛に対して尊敬が生まれた訳です。

そして、藩主酒井忠篤公、藩士は西郷隆盛に心服し
その後、藩主酒井忠篤公以下七十名が鹿児島を訪ね、西郷隆盛の教えを聞いてきた訳です。
その教えを、まとめたのが西郷訓です、正式には西郷南洲先生遺訓・と言います。
南州神社の拝殿の所にあります。

ちなみに、西郷訓を広めたのは、庄内藩士でした。

その時に、西郷隆盛と庄内藩家老、菅 実秀との対話の模様が(徳の交わり
と、言われています。



徳の交わり、の銅像

鹿児島の南州神社にもあります。
西郷隆盛の精神の本は
敬天愛人
の精神です。

南州神社 アドレス
http://www1.ocn.ne.jp/~x48ue66i/data/frame.htm


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